日台高座友の会とは

『台湾少年工』という話を聞いたことがあるでしょうか。

大東亜戦争末期、1943年に日本は戦況を好転させようと、航空機生産に必要とする優秀な労働力を台湾に求め、台湾の国民学校(小学校)高等科卒業生を中心に『働きながら勉強すれば旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開く』と約束し募集を行いました。台湾の多くの優秀な少年が競って応募し、学力優秀、身体強健、優れた道徳心、親の了解の4条件を備えた、延べ8400名もの少年達が厳しい試験を突破し海を渡って来ました。この少年達が『台湾少年工』と呼ばれています。

『台湾少年工』の配属先は現在の座間市にあった『高座海軍工廠』という場所で、寄宿舎は現在の大和市にありました。当時日本海軍が使用していたあらゆる航空機の製造に従事し、その技術と勤労意欲は高く評価されていたようですが、1945年8月15日、日本の敗戦により台湾へ送還されることになり、台湾少年工の勉学の夢、航空機技師への夢は破れてしまいました。

その後、台湾では1947年に2・28事件が発生、38年間という長きに渡る戒厳令下での不自由な生活を余儀なくされましたが、少年工達はそうした苦難の状況の中でも、水面下で当時の同僚との交流を続け、戒厳令が解除された翌年の1988年、台湾全土に20区会を擁する台湾少年工の同窓会組織、『台湾高座会』を結成させました。

『台湾高座会』は台湾一の知日集団として活動され、いつしか台湾で最大の親日団体と言われるまでになりました。東日本大震災の際の義捐金の額や、2013年のWBC(ワールドベースボールクラシック)での感動的な日台戦にも見受けられるように、現在も台湾の方が親日である理由の一つとして、この『台湾高座会』の皆様の活動が影響しているようです。

しかし、夢半ばで台湾へ送還されることになった少年工達は、何故これまで日本を想い、愛してくれているのか。そこには高座における様々な人間関係があったようです。

少年工達が配属された高座での、近くに住む農家のみなさんとの交流。

少年工達の元上司にあたる早川金次さんの、部下の台湾少年工を想う気持ち。

当時の宿舎の舎監であった石川明雄さんの御子息であり、元大和市議会議長の石川公弘さんとの運命的な出会い。

そんな多くの人と人の繋がりが、今日まで交流を続けてこられた大きな理由になると思います。

しかし、戦後75年を過ぎ、『台湾高座会』の皆様もかなりのご高齢になり、残念ながらご健在の方も少なくなって参りました。2018年10月に日本で開催された『台湾高座会留日75周年歓迎大会』においては、参加した元少年工は22名のみとなってしまい、最後の大規模な大会になるであろうと言われています。また、日本側で交流を続けてこられた『高座日台交流の会』の皆様もご高齢となってきました。

そんな状況を危惧してか、台湾では元少年工の二世、三世を中心に意思を継承する会、『台湾高座会青年部会』、『台湾高座友の会』が発足されました。

そして、日本側も『高座日台交流の会』の意思を引き継ぎ、旧高座の地に残る素晴らしい歴史、台湾少年工の皆様の繋がりから生まれた絆を守っていく為に発足した団体、それが『日台高座友の会』です。